日本妖怪研究所 / 所長 亀井澄夫 氏(有限会社レベル 代表取締役)
肩書きは日本妖怪研究所の所長であり、有限会社レベルの代表取締役。活動内容はミュージシャンであり文筆家、編集者で映像作家でもある。“人物像が大渋滞”を起こしている亀井澄夫氏。近年では平たく“オールマイティクリエイター”として既存ジャンルの垣根をいくつも飛び超えるどころか、新たなジャンルまで作り出して、マルチな活動を繰り広げている。そんな亀井氏のルーツを紐解けば、きっと面白いヒトとの出会いやデキゴトで満ち溢れているにちがいない。持ち前の嗅覚で、オオサカジン独自のルートを使い取材を敢行した。

伝説の音楽雑誌で執筆活動開始!
「自分にできること…いや苦じゃないことを、仕事にしようと思った」と語る亀井氏は、18歳のときに書いた原稿がかの音楽雑誌※①『rockin’on』に掲載され執筆活動の幕が開いた。当時、絶大な人気を誇ったピンクレディとキャンディーズを取り上げて、独特の視点から論じた内容が編集者の目に留まり、それを機に記名記事の掲載が始まる。当時執筆者のプロフィールは氏名に加えて住所も掲載されていたというから、個人情報の取り扱いにうるさい今の時代では考えられない。
※①『rockin’on』:ロッキング・オン社が発行する1972年創刊の洋楽ロック専門誌。当時は『ROCKIN'ON JAPAN』がなかったから、邦楽についても掲載されることがあった。
その住所を見て他媒体の編集者や、時にはファンと名乗る女の子からも連絡がありました。当時は今よりいい時代だったんです(笑)。指示どおり、ポストに鍵を入れておいたら、留守中に料理を作ってくれたり、部屋の掃除をしてくれたりすることもあって、楽しいし、ありがたいんだけど、なぜか全部留守中なんだよね。
文筆業のかたわら、多方面で精力的に活動
原稿が採用されたことにより、自分は原稿が書けると気づいた亀井氏は、当時の居住地・塩屋にちなんだ「塩屋マガジン」なるミニコミ誌や、現在のルーツとも言うべき「妖怪新聞」を創刊。と同時に、音楽活動を行い、自主映画を作ったり、印刷物のデザインなど、自分にできることを精力的に仕事にしていく。そんな亀井氏に目を留めたのが、プレイガイドジャーナル(通称プガジャ。「ぴあ」のような情報誌の先駆け)でミニコミ誌を物色していた※②株式会社JDCの久保岡宣子氏だった。
※②JDC出版:http://www.sekitansouko.com/jdc-top.html
▼「塩屋マガジン」の1号2号には「筒井康隆スペシャル・インタビュー」を掲載。筒井氏は当時、塩屋のとなり町「垂水」にお住まいでした。

まだ20歳の頃、久保岡氏から今度、某百貨店で【書店にない本展】をやるから出展してくださいという案内を受け取りました。それで手元にあった「妖怪新聞」の売れ残りをどっさり送ったところ、思いのほか売れたようで、後日通帳の入金額を見て驚いたんです(笑)。それで久保岡氏が「妖怪新聞」をえらく気に入ってくれて「うちで作ろう」という話に。最初は外注パートナーとしてのお付き合いだったのが、数年経った頃に「取締役になって」と言われ、生まれてこの方、正社員にもなったことないのに、いきなり取締役制作部長。そこから10年ほどJDCでお世話になり、そろそろ独立しょうかなと。もともと個人事業者だったんで元のポジションに戻った感じなんです。
妖怪について一切書かない「妖怪新聞」をきっかけに、妖怪にどっぷり
【書店にない本展】で爆売れし、出版社の社長も魅了した「妖怪新聞」。隔月で1号から12号まで発行されたというから、期間にして約2年(以後、形を変えて不定期に発行)。紙面はB4サイズの二つ折り、袋入りの封印新聞で、買わないと中が見れない。しかし「妖怪」とは名ばかりで、妖怪については一切記事にしていないというから驚いた。
▼当時の「妖怪新聞」。別冊で川崎ゆきおの「猟奇王子」など、付録も入っていた。

妖怪は正直、別に好きでも嫌いでもなかったね。当時の妖怪新聞は「恋愛の殺し方」とか、自分が思うことをつらつら書いてました。ジャイアント馬場のスゴロクとか、毎回オマケも付けてね。大阪や兵庫の書店を中心に15軒ほどに置いてもらったけど、これが意外にも女子にウケたんです。“本屋の中での存在自体が妖怪”でした。
妖怪新聞を作っていた頃、旧友で妖怪好きのバンド仲間から「妖怪講座って名前、おもろいと思わん?」と聞かれ「それ、おもろいな」と亀井氏。妖怪が呼び水となって生まれたのが講演の仕事。
六甲道にあった教室でね、土日に短期集中妖怪講座をやったんです。それが思いのほか好評で、新聞や雑誌にも取り上げられ評判に。「妖怪新聞」を作ってたけど、そんなに妖怪好きでもなかったから、当時の僕のお化けの知識なんて大したことなかったんですけどね(笑)。
▼当時の雑誌「週刊女性」と「話のチャンネル」から。

それでも仕事にする以上、徹底的に知識や情報を詰め込むのが亀井氏の手法。妖怪の知識がどんどん蓄積され、最初は「好きでも嫌いでもなかった」はずの妖怪にどんどん魅せられていく。そんな亀井氏の妖怪講座は面白いと評判になり、藤本義一やばんばひろふみら、当時人気のあったパーソナリティやタレントのラジオやテレビに出演するきっかけにもなった。
「好きこそものの上手なれ」をとことん地で行く、亀井氏の仕事ぶり
亀井氏がメディアを賑わすようになると、ますますカルチャーセンターからの講演依頼は増えていく。毎週のようにどこかで講座を行うような状況が続いて、否応なしに、妖怪やお化け、西洋や東洋の魔物についても勉強するようになった。
▼ルーマニアの「コロナホテル」にある「ジョナサンハーカー・ルーム」。ドラキュラにちなんだ料理を出してくれる。

振り返れば、僕の人生っていつもこんな感じ。依頼されて勉強し、また依頼されては勉強の繰り返し。次はカッパ、天狗、そしてドラキュラ、などと言いながら一所懸命勉強するわけです。でも実はこれが勉強法としては一番いいと思う。例えばイラストレーターにしても、趣味でデザインしているだけでは上達しない。ハガキ1枚でも仕事として引き受けたら身につくんですね。
コロナ禍にあったここ数年でも、「鬼と文学」「疫病と妖怪」などをテーマに選んだところ、妖怪講座は大人気だったという。

「鬼と文学」については例のアニメ(鬼滅)ブームが追い風となったし、「疫病と妖怪」ではアマビエを筆頭に古今東西の疫病にまつわる妖怪を取り上げたのが奏功しました。和泉中央のカルチャーセンターで月に1回、半年にわたる講座だったけど、毎回60名以上が集まり定員オーバーになったほど。三密を避けるため、大きなホールを使用しました。そして今後は、※③『アラビアンナイト(千夜一夜物語)』に取り組もうと思っています。『アラビアンナイト』と言いましても、もともとは千一夜分もお話がなくて、全部で282夜。その後、世界中からお話を集めてきて千一夜の長い物語にしたから、実は「アリババと40人の盗賊」や「アラジンと魔法のランプ」も、元々なかったお話。『アラビアンナイト』は奥が深く、知れば知るほど面白い。女奴隷と王子様の話とか恋物語だけを取り上げて、曲を作り「アラビアンナイト・ロマンス」と称して、音楽活動をします。まずはYouTubeでシェへラザードの朗読からスタートしようと考えています。
※③『アラビアンナイト(千夜一夜物語)』:シャーリアル王に、宰相の娘シェヘラザードが千一夜にわたり、さまざまな物語を語り続ける形式で描く、アラビアを中心とした民間伝承物語集。
▼エドマンド・デュラックの描くシェヘラザード(1907年版『アラビアンナイト』より)

「やりたいことがありすぎて死ねない」亀井氏はポジティブモンスター
アイデアも好奇心も「尽きる」気配がいっこうにない亀井氏。出版社を経営し、執筆業に講師業、音楽活動のみならず、映画や動画の制作、イベントの企画運営と、自他ともに認める“オールマイティクリエイター”だ。そんな亀井氏はいったい何に衝き動かされているのだろうか。無尽蔵に見受けられるアイデアやエネルギーの源があるとすればそれは何だろう。
漠然とあるのは、世の中を良くしたい気持ち、かな。みんなも同じ気持ちなんだろうけど、僕とほかの人とではやり方が違うのかもしれません。僕の活動はすべて、いろんな種を人の中に落としていき、その種に芽が出て成長していくのは、本人におまかせ。
アイデアについては、朝目覚めた瞬間に出てくるものが、自分でも感心するようなのが多いんです。また、テレビをまったく見ないので、夜は主に資料や本を読んでます。楽しすぎて朝になることもしょっちゅう。そこで何かがひらめくこともあります。
そして今、柳田国男の※④『遠野物語』を、改めて現地取材したいと思っています。『遠野物語』で描かれている妖怪や人間の想いなど「遠野物語完全解説」というのをしたい。
次から次とやりたいことが見つかるから、なかなか死ねないよね。このやり方だと150歳までは生きるはず(笑)。僕が200歳まで生きたら、世界中が僕のわがままを聞いてくれるようになると思う。
※④『遠野物語』:柳田国男が明治43年に発表した岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集。
▼亀井氏はインタビュー後のGWに岩手県の遠野に行き、現地取材を敢行。オシラサマやデンデラノ、供養絵なども改めてくわしく見た。

たとえ非現実な話でも亀井氏が話すと信ぴょう性があって、本当に150歳、200歳まで生きて、世の中に楽しいことをポンポンと作り出してくれるような気がした。そのうち亀井氏が大阪を代表する妖怪になるんじゃないか、なんて、楽しい夢想とともに取材を終えた。

