株式会社パレットハウスジャパン / 代表取締役 大町 浩 氏
「持続可能な開発目標」ーSDGsが国連で採択された2015年9月。その1年前に廃材再利用してをヴィンテージ家具にアップサイクルする株式会社パレットハウスジャパンは創業した。
当時はECO DESIGN と呼ばれていた。廃材を使う家具製作だけにとどまらず、内装、リノベーション、店舗、カフェ、オフィスなどの空間プロデュース等も手掛けている。創業11年目にして今では百貨店、大型商業施設、カフェからオフィス、ホテルまで上場企業に納品しているSDGsインテリアのTOPメーカーだ。
主に使用されている木材は「木製パレット」と呼ばれるフォークリフトで使う荷役台や建築現場 の外装工事に使われる足場杉古材である。
代表取締役 大町浩 氏は実は元吉本興業の漫才師「ライムライト」のライト坂田。
そして師匠はなんとあのアホの坂田こと坂田利夫さんである。
その経歴だけでもおもしろい。 芸能界でもそこそこ賞レースを獲得し一時は活躍したのだが31歳の時コンビ解散後、海外を放浪しその後家具屋のアルバイトからアウトレット家具店創業、数多くの経験を積み、見捨てられる廃材 をどうにか救いたい、「誰もやらないなら私がやる」と世界でも類を見ない「廃材で世界的なインテリアブランドを作る」と家具工房を設立した。
廃材とドロップアウトした自分を重ねるように廃材の再生に夢をかけて11年目、大町氏に、これまでの道のり、これから目指す事業への思いを伺った。

「誰もやらないなら私がやる」!逆転の発想から生まれた家具工房 360日営業
東大阪にある株式会社パレットハウスジャパンのオフィス兼ショールームには全国から毎日人が訪れる。
異なる木々を何種類も組み合わせ、ネイティブアメリカンのナバホ柄やモザイク模様など多様な柄を表現しているテーブルや美しい家具に、誰もが目を奪われる。古材を活かした何とも言えない味わいのあるデザインは、すべてオリジナルで職人による手作りだ。
社名にもある「パレット」は簡単にバラせないため置き場に困り、産業廃棄物となっているものだ。
見捨てられた彼ら(廃材)にもう一度命を吹き込み社会に戻し、オフィスで、レストランで、個人の家で 再び人のそばで生き続けるのだ。
処理される運命の木々たちは、この工房で「人にも地球にも優しい家具」に生まれ変わる。しかも素材が一期一会なので同じ物は作れない、すべてがオンリーワン。「それは人やペットと同じで、うちの家具もそれぞれに個性が違うのです。」と大町氏はいう。
31歳まで漫才師として様々な賞も獲得し活躍していた大町氏がなぜ起業したのか?なぜ廃材を使用した家具工房だったのか?
それを説明するには、大町氏が芸人時代での経験を抜いては語れない。
38年前、大町氏が芸人時代に島田紳助さんから言われ、ずっと心に残っている言葉がある。
「お前はみんなと違うねん。バッターボックスに傘を持って立ってんねん、しかも3塁に向かって走るやろ。」と。
確かに他の若手の芸人とは方向性が違ってたかも。だから楽屋では人気者でした(笑)。今で言えば野性爆弾のクッキー系かな。と 大町氏は笑う。
大町氏は大学卒業後、芸人を夢見たが挫折。 一度は就職したものの2年後、たまたま営業車のラジオから大学の落研時代の後輩がプロになり漫才をしていたのを聞いた。そして驚いた。 「こいつ相変わらずおもろない!」「俺のほうが上」。
そう突っ込むと同時に涙がぽろぽろ落ちてきた。あぁ、俺はこうして一度も勝負せず、一生負け犬の遠吠えをしていくのか?
情けない自分に涙が止まらなかった。その一回のラジオが彼の人生を変えることになる。
覚悟を決めた大町氏は翌月会社を辞め、一から芸人を目指す。
芸能プロダクションの運転手のアルバイトをしながらいろいろなツテ(縁故)を探した。真面目な人柄を評価され縁あってなんとコメディNO.1の坂田利夫さんの弟子となり、1986年に漫才コンビ「ライムライト」を結成。
ちなみに私の人生を変えたあのラジオの新人漫才師の一人は太平かつみ(兄さん)。
デビュー2年目の1988年には、「第9回ABC漫才・落語新人コンクール」(現:ABCお笑いグラ ンプリ)、「昭和63年度NHK新人演芸コンクール」で賞を受賞したが、その後残念ながらコンビは解散。
大町氏は冒険と刺激を求め1年間、ヨーロッパを経てニューヨークへ海外放浪の旅に出る。
アメリカで主流のスタンダップコメディ(※1)を改良して漫才のように2人でやれば面白いと思って、毎日ブロードウェイや大道芸などをたくさん見た。そして台本も書いていた。
(※1)スタンダップコメディ:アメリカのコメディアンが観客の前で直接彼らに向かって話す漫談芸ににたもの。
みんなレベルがすごく高くて、それに比べて自分は何なんだ?芸人としての自分自身を誇れなくなっていく。芸人武者修行旅が逆に自分の芸人能力限界旅に。行かないほうが良かったかもね(笑)。でも負けたことが分かっただけでも収穫だったんですね。残りの人生において(笑)。

原点は、お客さんが喜ぶこと!売らない家具店が大人気
帰国後、芸人の道を中断した大町氏は、食うため家具店の販売のアルバイトをする。この時初めて家具業界に携わり、後に起業するきっかけとなるのだが、この時は、まったくそんな気持ちはなかった。売ろうとしないのがお客さんに信用され始める。アルバイトの大町氏が店の売上No.1販売員になった。正社員を差し置いて土・日は<大町待ち>のお客 さんが並びだす。
販売員の仕事は基本たくさん売ること。だが大町氏の原点は、お客さんに喜んでもらうこと。同じ商品を自社より安く販売しているお店があれば、お客さんに「うちより安く売ってるよ」と その店のチラシを提供した上、店の行き方までも教えた。
大町氏にとっては普通のことだったが、自分の店に来た客をわざわざ他社に誘導したことが社⻑の耳に入る。
社長「君は店とお客、どっちの味方や?!客が予算10万言うたら15万で買わせるのが君らの仕事やろ!」
大町氏「私は店よりお客さんの味方です。お客さんが喜んでくれることが店の一番の利益だと思います。」
社長「俺は経営者だ!だが君はしょせん芸人。芸人の君は絶対に経営者になられへん!
そしてこの言葉が再びその後の彼の人生を変えていくのだ。
社長とは考え方が違っても絶好調のアルバイトの大町氏は年間6000万円の売上、37歳でついに正社員になり新店の店⻑になる。
そして自分がやりたった傷物・返品家具などのいわゆるB級品専門の家具店、今で言う家具のアウトレットを立ち上げたのだ。
道路から見えないようなへんぴな店だったが、奇抜なアイデアでだんだん評判になっていく。売りつける接客が嫌で、お客さんに家具を勧めないで、笑わかせてばかりいた。
ここが「売らない家具店」の原点です。お客さんがファンになって宣伝してくれる店が理想です。アウトレットの家具には元々愛情が湧いてました。傷物といえど同じ新品ですから耐久性はほぼ同じ。傷物を扱う店は格が低いと思われていましたから、売っても自慢にならない。皆さんこっそり売るんです(笑)。私は逆に日陰物ではなく、もっと明るい日なたで堂々と傷物のB級品を売ってやりたいと思いました。B級品でA級品の店に勝ってみたい!どこか芸人を挫折した自分のコンプレックスを投影していたんでしょうね(笑)。
ところが大町氏が始めた販売スタイルがよく売れた為、やがて本店の方でもアウトレット家具を販売しはじめる。そして本店が主導権を握り始める。遂には社長がアウトレットの実権を握るようになり大町氏のアイデアはことごとく却下。
反発し対抗する私になんと社長は「飼い犬に手を噛まれた」と。俺は飼い犬なんだ、ワンワン(笑)。
ここでまた人生が動く。周囲からも独立を勧められた大町氏 ここが人生の転機とコツコツと貯めた全財産を元手に家具店 を創業する。
家賃はなんと月95万円。元いた店の4倍の200坪の大型店だ。まさに一か八かの大勝負だった。
「芸人は経営者になれない」と言われた大町氏だが、芸人根性を持ったまま経営者になったらどうなるのか?
試してみたくなったそうだ。 紳助さんが言ったあの言葉が蘇る。
「バッターボックスに傘を持って立つ男、3塁に走る」
はじめから人と同じ勝負はしないと決めていた。そして41歳で創業した店の名前はなんと B級家具の「ウンコちゃんの家具屋さん」、まさに型破り 。同じ土俵では元の会社にも勝てない。そうなら誰もやらない自分だけの土俵を作ればいい。業界も通称「ウンコ家具」の出現にぶっ飛んだ。

ただすぐに潰れるだろうと業界は笑いながら傍観していた。とんでもない名前だが、実は当時大町氏や仲間が傷物やB級品の家具のことを愛着を込めて「ウンコちゃん」と呼んでいたことに由来する。だから自然だった。
やっぱ島田紳助さんは預言者(笑)。ウンコは汚いけれど「ウンコちゃん」と呼べば可愛らしいお友達みたいでしょ?!(笑)。
傷ついた家具に光を当て主役にするのがこの店の特徴。 それが芸人で挫折した大町氏の次のステージだったのだ。
店のテーマは「サプライズ&ファニー」、踊る家具屋さん。まるでテーマパークだ。毎日お客さんを楽しませるための店内の仕掛けやデコレーションを行い、店名と相まってこれが多くのマスコミに取り上げられた。店頭で踊るウンコ星人姿の大町氏に人は驚き子供は爆笑した。
子供はウンコ好きですよ。だって僕も小さい頃から何かあれば「ウンコ、ウンコ」と叫ぶ子供でした。母は泣いてたね(笑)。
大町氏は何度もテレビに出演する。それでも仮面を被り「ウンコ星人」と名乗るも、決して元芸人とは明かさなかった。 基本お客さんが特に子供が喜べば嬉しい。「売る店ではなく、何故か売れる店」にしたかった。元芸人、元吉本を売り物にせず実力で勝負したい。だから公表はしなかった。それが 大町氏のプライドだったのだ。

最初の頃は、いろんな仕掛けをしてお客さんを楽しませ、ファンも増え、売り上げも好調であった。だが世間に認められ過ぎた。黙っても客は来るとハングリー精神も減ってくる。
創業から9年目を迎えた頃は当初の「芸人崩れが見返したる!」というモチベーションも薄れ、奇抜な仕掛けもしなくなると、当然売上げも下がっていき方向性も失いかけていた。その頃(2013年)潰れかけの木工所をなんとか救ってほしいという声がかかる。
「見捨てられた廃材で家具を作れば材料代もタダだしゴミも減る、それに木もきっと喜ぶと思うよ」と声をかけたのだ。
最初は関わらないでおこうと思っていたが、木工所の社⻑はやる気がないため距離を置くも、そこにいた若い職人を見たとき、この2人をなんとかしてやりたいと、大町氏の侠気(おとこぎ)が動きだす。その時、後ろから「木の神様」の声がした。
「おまえが廃材を救ってやれ!」。 またしても大町氏の人生が変わる転機だった。
大町氏「よし決めた!君らに乗ってみよう!」。この時大町氏51歳、また新たな覚悟が始まった。
その一年後、自分で創業した「ウンコちゃんの家具屋さん」を甥に譲り、その潰れかけの木工所に廃材で家具を作るパレットハウスジャパンを創業することになる。しかしその後分かったのはそこの社⻑は4800万円もの負債を抱え最後の望みが大町氏の資金だった。大町氏は騙されていたのだ。そして更なるドラマが。
金は天下の回りもの!廃材で世界に通じるブランド家具を作る
土・日はウンコ星人として笑わかせてばかりいたんです。年間1000万円くらいの利益が出たので、毎年、バイトも含めて海外へ慰安旅行に行けました。日陰の傷ものを「ウンコちゃん」と名付け表舞台に出しました。逆転の発想です。
廃材から再生家具にするきっかけとなったのが、ある日訪れた一人の女性のお客さんの言葉でした。
中国製の古材家具を100万円以上も購入してくれたので、「なんで中古品のようなシミ付きのガタガタ家具を買うの?」と聞いたら、「この汚れ方がいいんです」と言われました。
その後も別の女性が同じように古材家具を購入してくれて、同じく「この古さがいいんです」と言うんです。
若いスタッフが汚れも付いてる古材家具を仕入れて来た時には「売れるわけないやろ!」と思っていたのが、そのダメージ感がお洒落でカッコいいという若い世代のお客様がいることに気付かされましたね。
このエピソードで関わってしまった潰れかけの木工所で、嫌われ者の産業廃棄材でヴィンテージ家具を作る。
これなら材料代もかからずゴミも減る。大町氏の中で 「産業廃棄材×ヴィンテージ家具×朽ちた工場」、この3つの糸が結びついた。
「みんな朽ちてますね。」満足そうに笑う大町氏。

創業して10年目。軌道に乗っていた「ウンコちゃんの家具屋さん」を甥っ子に譲り、潰れかけの 木工所を引き受け、社会の為にもなると産業廃棄材を使用しての家具工房を立ち上げた。「誰もやらないから私がやる」と世界でも類を見ない廃材を使用した家具工房 株式会社パレッ トハウスジャパンはこうしてスタートを切った。

物流現場で使用される「木製パレット」は、年間約90万トンとも言われ、役割を終えた後は、ほとんどが廃棄処理される運命にある。
大町氏は、それらを回収し、ダメージ感を活かしてヴィンテージテイストの家具へ命を吹き込むのだ。そして彼らは美しく蘇る。
ただその作業は、一般的な材料よりは何倍もの手間と労力がかかる。誰もやらない理由はそこにある。
古材の引き取り、解体、洗浄、乾燥。そして、部材の中からそのときに製作する家具にあった部材を選定。次に部材を必要なサイズや角度に製材し、製材したパーツが持つそれぞれの雰囲気を活かしながら配置を考えて組み立てていく。最後に行なう塗装は、下塗り、研磨などを含め7から10工程もある。
こうして誕生した家具は、お客さんの元で使えば使うほどさらに味わい深くなるという。時が家具を熟成させるのだ。しかし材料はタダ同然とは言え、手間と人件費を考えるとどうしても高額になってしまう。高額な廃材家具を買うだけの価値があることを認めさせるには?
そして大町氏はまた常識はずれのアイデアを思いつく。
20年使えばタダ!それがパレットハウスジャパン
自社商品を10年で半額、20年経ったら販売価格値で買い取るのだ。
ヴィンテージ家具は古くなるほど価値が上がることをメーカーが保証する制度いわば元本保証。これなら経年するほど資産価値が上がる家具だと理解してもらえる。オンリーワンのハンドメイドの少量生産だから成せるワザだ。
家具製造にはセンスも技術もいります。うちの製造部にはベテランと20代前半の若手がたくさんいます。しかも家具業界でも珍しい女性が3人もいて廃古材家具を作っています。大事なのは廃材への愛情と情熱です。廃材が醸し出す独特の深い味わいをいろんな人に知って欲しいので土・日・祝日もOPENしています。正月休み以外は年中無休で全国からお客さんが来ます。
納品事例は梅田ESTフードホール、阪神梅田本店、阪急梅田本店 、NTT⻄日本 パナソニックからカフェレストラン、木材販売店などから個人様まで。SDGsの最先端企業としてここ3年間で20回以上もTVで放送されています。
「芸人時代よりテレビに出てるね。」大町氏をテレビで見てオール巨人さんが家具を買いにきてくれました(笑)。
2024年7月にオープンした「東横 INN 東大阪」の1階の朝食コーナーと、隣接する東横INN東大阪scrum(スクラム)内のカフェにはこのサステナブルな取り組みを市外、県外、海外からのお客さまに伝えるきっかけにしたいとテーブルの注文を受け製作した。
パレットハウスジャパンの家具は、置くだけでもこうしたアピール力を持っている。

大町氏の今後の目標は、廃材で世界に通じるSDGsなブランド家具を作ることだという。
廃材というマイナスからでも利益を生み出す実績を作れば後を追う者も出てくる。
廃材が捨てられずにパレットハウスジャパンに来たこと自体、彼ら(廃材)の運の強さを感じる。強運の廃材たちと一緒に働ける私は幸せ者です。今後は廃材を救うために歌って踊る「廃材オジサン」として「ウンコ星人」を超えてみせますよ。と大町氏はあどけない顔で笑う。芸人で挫折した大町氏だからこそできる事業なのだろう。
大町氏のいるところには笑いが常にあり、以前『オオサカジン』の社⻑インタビュー記事でも取材させてもらった合同会社オフィスPLAYワーク
の「広報のがっこう」のアドバイザーも務めている。 因みに校⻑は大町氏と30年の付き合いで元NSCの校⻑を務め、スタッフ育成のスクールを立ち上げた水谷暢宏氏である。
★ 『オオサカジン』記事 https://shacho.osakazine.net/e759290.html
廃材に再度命を吹き込み、もう一度社会に戻してあげたいと願う大町氏の想いが世界へ発信される日がまもなく来る。
大町氏の会話はここで最高潮に達する。
「廃材のありがとう!」が聞こえる空間をどんどん作ります。そして廃材ゴミが資産に変わるそんな逆転のドラマ、見たいと思いませんか?「一度挫折したものが違うステージで復活する」 “廃材復活”というより敗者復活ですね。
今の私は一文無しの工場持ちですが。 こんなSDGsな廃材家具工房を作れたことを誇りに思います。ウンコちゃんの家具屋さんも 20年続いています。
日経ビジネスWeb版(2017年)の記事によると、ベンチャー企業の存続率は、5年目で15.0%、10年目で6.3%、20年目で0.3%とのことです。
パレットハウスジャパンも創業11年でまだ倒産してませんので10年目で6.3%×2社分なら 6,3%x6.3%は0.39%
つまりベンチャー起業者 1000人のうち3.9人、 250人に1人の確率になります。なかなかのもんでしょう(笑)。
私はこの廃材家具でウンコちゃんの家具屋さんで蓄えた資産を全部使いましたが後悔してません。廃材のありがとうを感じるし、お金より大事なものをいただきましたから廃材を救うよりむしろ廃材に私が救われているのでしょう。
老後はどうするか? こんなことも考えていますよ。「今までの波乱万丈ネタ」でまずは本を書きます。サブタイトルはもちろん「傘を持ってバッターボックスに入る男」(笑)。その後ドラマ化。局はABCかMBSの土曜日、2時間ドラマ位。後は講演会でフーテンの寅さんのように全国を回る予定です。だから一文無しでも誰かを喜ばせれば食えるのではと思っています。64歳になった廃材オジサンはまだまだ落ち着きませんよ。おもしろ冒険心人生ですから。
過去の自分には興味がありませんが、あえて振り返るなら芸人のときのライムライトのライト坂田は人を笑わすことばかり考えていましたが、
この年になりあの憧れたチャップリンの「ライムライト」に少しは近づいているかも、、。
助けたのは踊り子ではなく廃材だけど(涙・笑)。
★映画「ライムライト」(1952年・米国)あらすじ
人生への絶望から自殺を図った踊り子テリー。老道化師カルベロは彼女を救い、元気づけようとする。
自身の生活も楽ではないが少女を見捨てることは忍びなく、彼は大切なバイオリンを質に入れ、彼女の回復を祈る。
やがて彼は、それまで気乗りしなかった舞台に再び立つ決心をする。

