株式会社 からここカンパニー / 代表取締役社長 小林 雅代 氏
始まりは1967(昭和32)年に祖父と祖母が開いた町の小さな食堂。やがて高度成長期の追い風も受け、近隣の工場に弁当を届けるようになるなど繁盛した。1988(昭和63)年に、後を継いだ二代目の父の代になって事業を拡大。1995(平成7)年に法人化し、幼稚園、小学校の給食を開始する。大阪府が中学校給食を推進したことにともなって本社がある八尾市に次々と工場を建設し、現在は4ヶ所の生産拠点を持つ。そして2020(令和2)年に、三代目の娘である小林雅代氏が代表取締役社長に就任した。

小学校4年生のころ、将来の夢を絵に描く授業で、お弁当を盛り付けている絵を描きました。大学は商経学部に入りました。そこで今後に活かせる情報などを集めたりして、卒業後に入社しました。それからは学校の調理の現場に入ったり、工場の事務、営業的なことなど幅広くやりましたね
ただ既定路線に乗って、そのまま会社を継ぐことを考えていたかと思えば、そうではなかったようだ。
事業継承をすることになる時期、社内は混乱していました。会社に対する不満の声も多かったと思います。私はこうなっているのは社長である父の責任でもあると思っていましたし、会社がそんな状態だったから、ちょっと及び腰だったんです
そのころに父は、相談ともつかぬニュアンスでこう話しかけてきたという。「一生懸命やってるのに、社員さんが喜んでくれてないのなら、もう会社やめた方がいいかな」。
最後の決断を、私に託すようだったんです。ここで私が『そうしたら』と答えたら、そうなってしまう。それなら私が引き継いで、本当にアカンとなったら私の代でやめようと。そう決めて、後を継ぐことにしました
二代目の父から引き継いだ会社は
一生懸命やっているのにみんなが困っていた
まず手を付けたのは、先代の時代から問題になっていた会社への不満。その要因になっていたのは工場が分散していて、それぞれに風土が違ったり、情報に格差があったこと。会社を統括する部署がなく、指示系統が混乱していた。

当時の社内は、給食を作ること以外がぐちゃぐちゃでした。工場のうちのひとつに本社機能もあって、社長の時代の父はそこにいました。だから現場の様子は、そこのことしか見えない。他の工場に父の言葉が届いておらず、揉めごとが頻繁に起こっていたんです
全員が社長に指示を仰がないと、なにもできない。当時の社内は、典型的な文鎮型組織(※1)だったという。
(※1)※1 文鎮型組織とは、経営者が組織のトップとして置かれ、それ以外の従業員は同じ立場になる組織形態で、従来の主流な組織形態のピラミッド型組織とは対照的な構造です。経営トップに意思決定の負担が集中しやすく、トップの能力を超える規模になると組織運営が困難になる可能性があります。
それを改めるために、本社機能を外に出したんです。そうして本社が全部の工場を平等に見る体制に変えるなど、5年計画でいろんなことを変更していきました。もともとみんな一生懸命なので、手前味噌ですが、会社は素晴らしく変わったなと思っています
今まではなかった工場間の人事異動を取り入れるなどで、人の交流を促す。そうすることで工場間にあった溝のようなものは徐々に埋まり、社内の風通しが良くなった。また福利厚生として、整体やメディカルフットケアを受けられたり、パートを含めた従業員のためにダンスやボウリングなど、社内クラブ活動も発足させた。

変革は社内だけにとどまらず、小林氏は自身がトップになってから学校の給食事業と並行して続けていた企業向けの弁当販売を、業務の効率化の観点から終了。社名も、現在の株式会社からここカンパニーに改称するなど改革の手を打つ。
祖父と祖母が始めた食堂の名前が『お食事処松ちゃん』で、法人化する際に父が商号を『株式会社松ちゃん給食』としたんです。だけどこれからは、給食以外の事業もやっていこうと決めました。そうなると社名に『給食』とあれば、給食以外の事業をする際に支障が出ると思ったので、現在の社名である『株式会社からここカンパニー』に商号を変更しました

社名の「から」は体、「ここ」は心が由来。食べるもので体を作り、健康な体で心を育むといった意味合いが込められている。これらにとどまらず、三代目はまだまだ積極的に動く。次は新規事業として、介護食の分野に乗り出すと決めた。
学校給食には、必ず閑散期が発生する
次の事業として着目したのは介護食
商号を変更する少し前に、介護食をやると決めました。学校給食は夏休み、冬休み、春休みと必ず閑散期が発生します。なので社長に就任してからずっと、何かいい新規事業はないかとアンテナを張っている状態だったんです
介護食に着目したのは、これからの日本が確実に高齢化社会へと進むことからかと思えば、実はある縁からだった。

ご縁があって知り合った販売会社さんに『介護食で、こういう商品を作りたい。それを実現してくれる会社を探している』とお聞きして、それならウチで作れる、と思ったのがきっかけです。私たちは作るのは専門ですが、売ることはそうではありません。まずは弊社で売り手のご要望をお聞きして、作ることをやって行こうということです。企画と販売がいちばん儲かると言われていますが、私は作るほうが好きなんですよ。大勢でワーワー言いながら、なにかを作り上げるのがすごく楽しい。儲からなくても、そっちをやりたい。とはいっても、儲からないといけないのですけど(笑)
今後のビジョンとしては、販売者の依頼を受けて製造を担っていく考えなのか。
これからの2~3年は、そうですね。まずは、その一社の要望に応えていこうと。それをやっているうちに基盤ができたら、自分たちで商品開発もしていきたいと思っています
介護食事業となると、工場は通年で稼働させなければいけない。学校給食の閑散期は問題なくとも、通常期に介護食の製造をどう両立させるかなど、クリアすべき課題があることは当然、理解している。
それでも新規事業に乗り出すのは、安定が見込まれる自治体が発注者であれど少子化もあり、学校給食事業が現在のスケールを維持できるとは限らない。それゆえ近い将来に、社の事業に変革の必要が訪れると判断したからだ。だから今の短期的な目標は、社の将来に道筋をつけるため、次の事業を軌道に乗せること。そこに向かってトップがいかに舵を取るかで、社の未来が左右する。
これからの数年が、社の未来を左右する
重要な時期にも、トップに重圧はない
本当に、そうなんですよね。この2~3年の動きが、会社の行く末に関わってきます。でも私は楽観主義者ではありませんが、根本的には何が起きても大丈夫だと思っています。解決できることしか起きないと思っているので、不安やプレッシャーは感じていません。いえ、もっとそれを感じたほうが、いいのかもしれませんけど(笑)
カラカラと明るく笑う小林氏を見ていると、根拠はなくとも、この人なら大丈夫なんだろうと思わされる。そんなトップは変革期のこれからの2~3年を乗り越えた先に、社がどんな姿にあるとイメージするのか。
長期では15年後かなと考えていたのですか、10年後あたりには売り上げが50億円くらいの規模の会社になるんじゃないかなと。漠然とですが、そう思っています。それは必達ではなく、自然となっている感じがするんですよね。その先に100億円という数字もあり、自然にそうなれるような基盤を今、作ろうとしています。そこを必達で目指しているわけではなく、今やっているのは、それが可能になる土台作りですね
小林氏は10年後のさらにその先の、社の将来図を頭に描いているのだろうか。そう問うと、穏やかな笑顔を浮かべながらクビを横に振った。
それに関しては、とくにないんですよ。10年後に社会から求められていることは今はまだ想像できないから。でも私は子どもがいないので、社員のだれかに社長を譲ろうと思っているんです。今は自分のひと周り下くらいの世代の人たちが育って、楽しく会社を経営してもらえるような状態にしたいなと思って動いています。20~30代の従業員には『将来は、こうならなアカンで』とか、シリアスな感じではなく『社長やってや!』などと言っています。そんな声掛けをしているうちに『社長をやってもエエかな』と思ったり、そういうことを意識するコが出てくればいいなと思っているんですよね
今のうちから事業承継のことを考えているのは、ビジネスパーソンとして自らが高い出力を発揮できる間を、フルスロットルで駆け抜けるための決意表明でもあろう。とはいえ、その時間を独りよがりに走り切るつもりはない。小林氏は組織には、つねに新陳代謝が必要だと認識している。そのために人の動きを活発に促し、社内が澱めばそこに手を入れる。社に変革の風を吹かせる小林氏は次にバトンを受け取る者のためにも、これからもそれを続けていくことだろう。
